漫画家・かかし朝浩の公式ブログです。
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また御無沙汰です。
報告が2週遅れになりましたが、サイン会はお陰様で盛況のうちに終了することが出来まして、有難い限りです。
また機会がありましたら何か担当ともども企画しようと思いますので、その際にはぜひ宜しくお願いいたします。御来場いただいた方、お疲れ様でした。
~~~
最近は何か書こうとすると、今紛糾している「あの規制」について書かざるをえず、しかし色んな理由から書くのがためらわれまして…。
その一つには、どう書いても誰かの気分を害するわりに影響が小さい、というのもありますし、まあ他にもホント色々と。
そのかわり、ちょっと「キャラ立て技術」に関して気が付いたことがあったので、それでも書いてみようかと思います。
報告が2週遅れになりましたが、サイン会はお陰様で盛況のうちに終了することが出来まして、有難い限りです。
また機会がありましたら何か担当ともども企画しようと思いますので、その際にはぜひ宜しくお願いいたします。御来場いただいた方、お疲れ様でした。
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最近は何か書こうとすると、今紛糾している「あの規制」について書かざるをえず、しかし色んな理由から書くのがためらわれまして…。
その一つには、どう書いても誰かの気分を害するわりに影響が小さい、というのもありますし、まあ他にもホント色々と。
そのかわり、ちょっと「キャラ立て技術」に関して気が付いたことがあったので、それでも書いてみようかと思います。
キャラクターの強さには、容姿や言動もさることながら「目的意識の異常さ・強さ」も大事な要素です。
現代日本において、国家的・民族的な目的意識はかなり希薄です。
その代わり「個人」が強固になり、目的意識も個人ごとに特化され、共感しにくいものとなっています。
これを一言で表せば、「変態」です。
現代エンターテイメントにおいて最強のキャラクターは、各種の「変態」であると言っても過言では無いでしょう。
(過言じゃないか…?)
で、「変態」を世に定着させた漫画を挙げるとすれば。
筆頭が『3年奇面組』『ハイスク~ル!奇面組』です。私はこの作品を基本の一つとしており、オマージュした『ふぁにーふぇいす』(タイトルを英訳して引用)を連載していました。
最近、キャラ立てには今以上に「家族や環境」の掘り下げが必須では無いかと思いあたりました。
過去好きだった漫画を読み返してみると…『奇面組』はその点において非常に緻密であり、それまでのギャグマンガと一線を画していると判ったのです。
メインキャラのムチャな性格づけに対し、「こういう家だからこんな人間になったんだ」と納得させるような生い立ちと家族を、これでもかと情報公開する。それ自体がギャグとして成立しながら、人物像に存在感を与えています。
同時期のジャンプには徳広正也氏などが同様の手法を取っていますが、ギャグマンガを使い捨てではなく長編として成立させるアクロバットとして、非常に有効で面白い手法です。
無論、周囲に配置される人物と環境自体が理にかなっていないと、この手法は簡単に破綻します。
『奇面組』は明らかに後付けでありながら、そこに抜かりはありません。
主人公である一堂零は、「変な顔」を自覚しつつも、「それを誇ってしまえばいい」という異様な自己肯定ができる人物です。それゆえ周囲から「変態」と呼ばれ、またそれを自認することで「変態」の仲間ばかり集まってくるわけですが、この特殊な思考にはちゃんと理由があります。
零は幼くして、母と死別しています。自我が固まって「親離れ」、つまり母親が嫌いになる前の状態で、母性観が止まってしまっています。
だから、彼は「大好きだった母」と瓜二つの自分の顔を、世間的に変な顔だと認識しても「嫌い」にはどうしてもなれない。このズレを埋めるため、「変な顔を誇りにする」という強引な理論が生まれたのです。
相棒の豪は、バクチ狂の親父のため家族がバラバラになり、叔父夫婦の酒屋を手伝いながら「住ませてもらってる」境遇です。叔父夫婦は恩を着せているつもりはないにせよ、豪自身は「迷惑をかけちゃいけない」と過剰にストイックに自分を縛りつけ、「男らしさ」に執着するようになります。唯一の趣味がイヤホンで深夜ラジオを聴く事だけ、というあたりにそれが見て取れます。
その堅く閉ざされた世界をぶちこわしたのが、「変態で何が悪い、顔が変でどこが悪い」と開き直った零です。
豪は作中で一度だけですが、「尊敬する人は」と聞かれて「リーダー」と即答しています。
さんざんバカにし、事あるごとにボコボコにしておきながら、零が自分の殻を破ってくれたことを決して忘れません。
また、ヒロイン唯の母親が病弱で、母親を亡くした零が他人事に思えないところや、画家の父親と生意気な弟の面倒を見る日々のおかげで早くから「お母さん」として振舞っていることも、二人の恋愛に説得力を持たせています。
多少うがち過ぎの感もありますが、ギャグを一切無視して青春ドラマとして見ても、十分に面白い人間関係です。
このへんをもっと意識してキャラクター像を掘り下げていけば、また面白いものが描けるんじゃないか…と企んでいます。まあそれをさし置いても、好きな作品の、好きな理由が新たに発見できるというのは楽しいもんですねえ。
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無題
主人公が奇人変人の話ばかりもあれなので、ここは長髪眼鏡で色恋沙汰には縁のない委員長タイプの女の子が本の虫で風采の上がらない初老の男性と恋愛ほどでもないけど何故か気が合う関係なのが、事件に巻き込まれて実はそれは二人とも魔術師だったことが発覚、改めて男性に師事を仰ぐ女の子に降りかかるいわゆる日常を装った怪異とかいう身も蓋もない話もそれはそれでいわゆるライトなノベルなのがもののあわれで良い感じ?
例のアレについては
そもそもが「非実在の存在は個人の範疇に於いて想像という行為を起因とし、存在数は無限大である」事からすれば「規制そのものが人間を排除しなければ成立せず」、出版の問題ではなく表現の問題に終始している限りは規制に要するエントロピーが無限大となってしまい平行線です。この点から、常識的に考えれば内容を云々する以前に法文としておかしい訳ですから、少なくとも条例文が変更されない限りは話し合いの余地などこれっぽっちもありません。というか、表現上の問題について推進派であれ保守派であれ、両者共に結論としてこの法案をそのまま吟味するなら「実現不可能」とならなければおかしいですのですわね。これを真顔で発言しているなら辞職を勧告するレベルですな……。そして規制云々以前に俎上に乗せるレベルに達していないからこそ、此処まで紛糾するのでしょうね。誰が条例文を策定したかちょっと知りたいです。
(此処から下はかかし先生の「表現」に対するお答えです。私感ですが超長いです!)
で、キャラ付けのお話ですが、そういった側面はかなりあると思います。某アニメーターさんが「ガンダム以降のロボットアニメは最近、殆どが深夜枠の規制対象だ」と嘆いておりましたが、これについても似たような感じでお答えしたことがあります。ですからロボットアニメに例えて書きますね。
とどのつまり、結局はロボットの使用用途が根本として「軍事目的」である以上、表現手法として突き詰めるとリアリズムを伴った近現代風となるか、それとも仮想現実を突き詰めて完全なサイエンスフィクションとなるかの両極があると思っております。どちらにせよ表現は進化するより他ないのですが、この「進化する」が良くも悪くも「面白くなる」と「表現の幅が広がる」に繋がりますので、一方でそれは相対的に「つまらない」を生む切っ掛けともなれば、幅が広がって閾値を脱する作品も生んでしまうわけです。前記の表現規制に対してもこれはこの辺りのお話ですね。理由を後付けする、或いは恣意目的を含ませるからおかしくなるわけです。
やはりロボット表現から表現手法について付随しますが、私が見た中で表現史上、初めてある程度の現実性と、それに伴う表現上の制約を両立した作品(つまり「不自由さ」を自ら容認した作品)がゆうきまさみ著の「機動警察パトレイバー」でした。ロボットという非日常の産物の般化と一般法規に於ける行動限界を示す警察という組織での物語展開は実に見事でした(実は私、ロボット入門はガンダムではなくパトレイバーだったりします)。科学技術という代物が霧中の産物ではなく一定の社会価値を得たからこその作品であったと思います。
以降の作品として特筆されるのは、ロボットを一度、機械として工学分野に分解し直した後、今度は逆に「非日常に対して現代技術の延長で挑む」という長大なテーマを描いたのが、アニメ版の「プラネテス」です(漫画版とは全くシナリオが違うので、幸村誠先生の原作は別とします)。この科学技術という観点からすれば、「現代技術で手法論としては可能な非日常を極めて無機質な現実として表現した」のは漫画版「ルー・ガルー(京極夏彦原作、樋口彰彦作画)」が顕著で、「仮想科学を仮想表現で表した」のは「電脳コイル」が解りやすいでしょうか。
逆に旧来から連綿と続く「科学技術から発生したロボット技術が依然として軍事転用され続けている」という近未来を徹底的にリアリズムを以て表現されているのは、私が知る限り「red Eyes(新堂潤先生)」と「FRONT MISSION DOG LIFE &DOG STYLE(太田垣康男脚本、C.H.LINE作画)」が秀逸です。両者共に、絶対にゴールデンでは放映出来ない軍事作品ですw
こんな感じで、表現の手法として平面図表とするなら、二極として「現実性」と「技術的可能性」が上げられると思います。これに当て嵌まらない作品は「新しい表現手法」としてまた別の分類方法があるでしょう。この「新しい表現手法」がロボット作品では「ロボットの運用方法」となるわけです。
それではサイン会、お疲れ様でした。以降も宰相にハァハァする所存です。宰相は何となく、自分に対してある種の諦観というか負い目があるよな女性ですよねぇ……。「自分に対する悪評は極度に気にするが、好評は絶対に信じない」というような。自分の注いだ愛情が相応に返ってこない恋ほど辛いものは無いぞ、宰相w でもがんばれ!
宰相は愛して貰うと極端に表情が和らぐ方のような気がします(だからこそ、配偶者を愛しきる自身がない人間には「重い」とかいわれるわけですがw)。
(此処から下はかかし先生の「表現」に対するお答えです。私感ですが超長いです!)
で、キャラ付けのお話ですが、そういった側面はかなりあると思います。某アニメーターさんが「ガンダム以降のロボットアニメは最近、殆どが深夜枠の規制対象だ」と嘆いておりましたが、これについても似たような感じでお答えしたことがあります。ですからロボットアニメに例えて書きますね。
とどのつまり、結局はロボットの使用用途が根本として「軍事目的」である以上、表現手法として突き詰めるとリアリズムを伴った近現代風となるか、それとも仮想現実を突き詰めて完全なサイエンスフィクションとなるかの両極があると思っております。どちらにせよ表現は進化するより他ないのですが、この「進化する」が良くも悪くも「面白くなる」と「表現の幅が広がる」に繋がりますので、一方でそれは相対的に「つまらない」を生む切っ掛けともなれば、幅が広がって閾値を脱する作品も生んでしまうわけです。前記の表現規制に対してもこれはこの辺りのお話ですね。理由を後付けする、或いは恣意目的を含ませるからおかしくなるわけです。
やはりロボット表現から表現手法について付随しますが、私が見た中で表現史上、初めてある程度の現実性と、それに伴う表現上の制約を両立した作品(つまり「不自由さ」を自ら容認した作品)がゆうきまさみ著の「機動警察パトレイバー」でした。ロボットという非日常の産物の般化と一般法規に於ける行動限界を示す警察という組織での物語展開は実に見事でした(実は私、ロボット入門はガンダムではなくパトレイバーだったりします)。科学技術という代物が霧中の産物ではなく一定の社会価値を得たからこその作品であったと思います。
以降の作品として特筆されるのは、ロボットを一度、機械として工学分野に分解し直した後、今度は逆に「非日常に対して現代技術の延長で挑む」という長大なテーマを描いたのが、アニメ版の「プラネテス」です(漫画版とは全くシナリオが違うので、幸村誠先生の原作は別とします)。この科学技術という観点からすれば、「現代技術で手法論としては可能な非日常を極めて無機質な現実として表現した」のは漫画版「ルー・ガルー(京極夏彦原作、樋口彰彦作画)」が顕著で、「仮想科学を仮想表現で表した」のは「電脳コイル」が解りやすいでしょうか。
逆に旧来から連綿と続く「科学技術から発生したロボット技術が依然として軍事転用され続けている」という近未来を徹底的にリアリズムを以て表現されているのは、私が知る限り「red Eyes(新堂潤先生)」と「FRONT MISSION DOG LIFE &DOG STYLE(太田垣康男脚本、C.H.LINE作画)」が秀逸です。両者共に、絶対にゴールデンでは放映出来ない軍事作品ですw
こんな感じで、表現の手法として平面図表とするなら、二極として「現実性」と「技術的可能性」が上げられると思います。これに当て嵌まらない作品は「新しい表現手法」としてまた別の分類方法があるでしょう。この「新しい表現手法」がロボット作品では「ロボットの運用方法」となるわけです。
それではサイン会、お疲れ様でした。以降も宰相にハァハァする所存です。宰相は何となく、自分に対してある種の諦観というか負い目があるよな女性ですよねぇ……。「自分に対する悪評は極度に気にするが、好評は絶対に信じない」というような。自分の注いだ愛情が相応に返ってこない恋ほど辛いものは無いぞ、宰相w でもがんばれ!
宰相は愛して貰うと極端に表情が和らぐ方のような気がします(だからこそ、配偶者を愛しきる自身がない人間には「重い」とかいわれるわけですがw)。
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